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#歴史アカデミー #会輔社 #幕末

にの歴文(にのネット)

2016.03.19

#歴史アカデミー #会輔社 #幕末

 徳川幕府の末期になると北辺事情が急を告げます。ロシア人が開国を求めて蝦夷地にやってきたのです。

 文化4年(1807)には、幕府はエゾ地を全部直割として南部津軽両藩に警備を命じます。その後ロシア人が再び来襲して、容易ではない事態に発展しました。
 幕府は秋田・庄内藩からも出兵させ、続いて仙台藩にも加勢を命じ、奥州の諸藩が出動することになって泰平二百年の夢は破られたのでした。

 幕府の対応は困惑そのものでした。 切迫した外国との接触、幕府の乏しい実力を目の前に、日本人の胸に国家という意識が湧き始め、学問として研究されていた国学や皇学も、このような事態に直面して国家意識を目覚めさせる重要な要素となりました。

 そんな時代背景の中で現れたのが下斗米将真です。 彼は、江戸に出て平山行蔵に入門。平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになった。
 平山行蔵は、江戸時代後期の幕臣で兵法家。剣術流派として講武実用流を称した。間宮林蔵、近藤重蔵とともに「文政の三蔵」と呼ばれる人物です。

 将真は、父が病気と聞いて帰郷し、1818年(文政元年)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設します。 同塾では武家や町人の子弟の教育にあたりました。 同年10月に同塾は近郷の金田一に移転します。 兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、演武場、書院、勝手、物置、厩、馬場、水練場などを備えていました。 門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたそうです。その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じました。

 当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていましたが、 将真も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたと伝えられています。この思想は、師匠の平山行蔵の影響と考えられます。

 将真が「相馬大作事件」で福岡を去った後、門弟たちで彼の精神が受け継がれます。その中心人物が田中舘彦右衛門でした。 嘉永年間に呑香稲荷神社の小保内孫陸とはかり槻陰舎を興し、 国学を中心に華道、茶道、書道、絵画、和歌などの諸芸を教授して郷土青少年の訓育につとめたのです。

 このような素地を持っていた地域に、時の社会の情勢を背景として、人を得た福岡(岩手県二戸市)に、大日本奥州会輔社という集団が結成されたのは歴史的必然だったのです。

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