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北海道の観光地として知られる「昭和新山」は、昭和18年暮れにその活動が活発化して誕生しました。

にの歴文(にのネット)

2018.01.06

北海道の観光地として知られる「昭和新山」は、昭和18年暮れにその活動が活発化して誕生しました。
その完成は、昭和20年9月です。
その形成の過程は、アマチュア火山学者・三松正夫の詳細な観察により世に知られることになりました。

明治43年、有珠郡壮瞥村の郵便局長代理として勤務していた三松正夫は、明治新山(四十三山)の形成過程を目にします。
地震の連続、人々の目にはわからないうちに進行する大地の隆起、各火口から噴き出る白煙や黒煙、四方に降る火山灰や泥流の溢出。
その活動は、のどかな生活を一変させる大事件で、三松にとって火山に対する認識と興味、そして不安を感じさせるものでした。

明治新山の形成から程なくして、有珠郡洞爺村に一人の火山学者が現地調査に訪れます。
火山研究の第一人者で北海道大学助教授の田中舘秀三博士でした。
地元では、これを機会に火山に関するお話を伺いたいと願い出たところ、博士は快く引き受けたのでした。
博士が滞在していた三樹亭三橋旅館の広間は、臨時の講演会場に早変わり。
この講演会に三松が参加したことにより、二人の交流が始まります。

三松の回想によると、その噛んで含めるような解りやすい話しぶり、有珠山に関する学問的な説明に深い感銘を受けたととあります。
博士から、「この次に来る時には、参考書を届けてあげるよ。」という思いがけない言葉をかけていただき、その場で、自分勝手に師弟の契りを結んだのでした。
二人の交流は、博士が亡くなる昭和26年まで続きます。

田中舘秀三博士は、明治17年(1884)6月11日に、岩手県二戸郡福岡村(現二戸市)に生まれました。
本名は下斗米秀二郎です。
田中舘愛橘博士の一人娘・美稲と結婚し田中舘姓を名乗るようになります。
地元の福岡小学校卒業後に、旧制盛岡中学に進学。同級に、野村胡堂、山辺英太郎などが居ります。
盛岡中学から第三高等学校、東京帝国大学へと進み、地質学研究の第一人者に。

田中舘博士が三松にアドバイスしたことに、
「あれこれと広く調査して、次第に重点を絞ってゆく方法」と同時に、
「一つのものを一定の視点で永く追う」の重要性がありました。

三松は、「一つのものを一定の視線で永く追う」方法で昭和新山の形成過程を約一年半にわたりスケッチします。
このスケッチを、昭和23年に田中舘博士が三松の業績としてオスロで開かれた万国火山会議で発表し、「ミマツダイヤグラム」名付けられます。
「ミマツダイヤグラム」は世界的に認められる業績となりました。

さて、「昭和新山」という新火山の名称は、もちろん生成過程では無名でした。
活動が終わって多くの学者が調査に訪れ、三松の自宅で酒を飲みながら火山談義にふけるようになります。
誰からともなく、この新しい山に良い名前をつけようということになり、相談しますがなかなか纏まりません。
「三松山」「正夫山」という意見も出たようですが、三松自身が固辞したので見送られます。
最終的に田中舘博士に一任ということになりました。
そこで博士は、津屋東大地震研究所長と相談し「昭和新山」命名したのです。

また、田中舘秀三博士は日本占領下のシンガポールで、英国の科学者たちと協力し後世に残る活躍をしています。
そのことは別の機会に紹介したいと思います。

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